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4月 18, 2014 | Permalink
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4月 18, 2014 | Permalink
来月のスイートベイジルで、10年ぶりくらいに
ジャズ・トリオと一緒に
スタンダード・ナンバーを(プログラムの一部ですが)
歌います!
『ジャズシンガー』として、CDを初めてリリースし
ジャズクラブでスタンダードを歌っていた、
20年まえ。
そもそも3歳からクラシックピアノを習い、
小学生から合唱少女で、
高校ではロックンロールのバンドでエレキベースを弾き
大学生のころ、アマチュアバンドで歌っていた
ソウル・ミュージックの歌唱に行き詰まって
「アメリカのポップス音楽の基礎は、ジャズだろう」
と思って、勉強のために歌い始めた、
ジャズ・スタンダード。
たくさんの音楽に興味があった私には、
多くのジャズ・ミュージシャンの方々と違って
『ジャズ』というものへの思い入れが
あまり、ありませんでした。
どちらかというと、ジャズのリズムや音符の崩し方は
私にとっては、馴染みにくく、聴きづらいもので
だからこそ、勉強したいと思ったのです。
最初の活動の場が、ジャズクラブだったせいで
『ジャズシンガー』だと考えられることが多かった
最初の5年ほどが過ぎてから、
私はますます、
世界中のいろいろな、美しい曲たちを
自分なりのやりかたで歌いたい、と
願うようになりました。
(「自分なりの」といっても、
自分らしくしようと思っているというよりは
あまりにも不器用なので、
ひとの真似ができないだけなので(笑)
『私にできるやり方で』というほうが
適切な言い方かもしれません。。。)
クラシック、ブラジル音楽、各国の民謡、
ロック、ポップス、日本の童謡、
歌謡曲に演歌まで!
そしてもちろん、私自身がつくった曲も。
それぞれの曲には、
それぞれかけがえのない美しさがあって
それが、わたし、という人間の
こころとからだを通して
たったひとつの、そのときだけの
うたになってゆく。
私にとっては、なによりも、そのことが
すばらしく、心惹かれるできごとだったのです。
この10年ほどは、自分の肩書きを
『ヴォーカリスト』『歌手』
『いのちの響きをつむぐ歌い手』としています。
歌う曲のジャンルが何であるか
演奏がそれらしいかということよりも、
自分のこころの琴線に触れたメロディやことばが
声になってゆく、その過程を
大切にしたいのです。
ひとつのコンサートやライブの曲の中で
いわゆる、スタンダードナンバーは
一曲、あるいは、まったくないことも多く、
楽器編成も、ギターとパーカッションだったり
ピアノとチェロだったりで、
いわゆるピアノ、ベース、ドラムスの
ジャズトリオであることは
ここ10年以上、ありませんでした。
そして、最近。
一昨年ほど前に、シアトルに滞在していたとき
友人が運転する車のラジオでかかっていた
ジャズ専門チャンネル
(アメリカには、そういうラジオ局がたくさんあるのです。
さすが、ジャズの生まれた国。。。)
から流れてきた曲に、
私は目を見張りました。
それはたぶん、ニーナ・シモンが歌う
'Willow, Weep for Me'(柳よ泣いておくれ)
だったと思います。
そのメロディと歌詞の、美しい抑揚、
コードが主旋律に落とす陰影、
ニーナのふくよかで、無邪気で、それでいて決然とした
声。
ジャズが、いってみれば日本における演歌のように
自分たちのたましいの、みなもとの一部として
ひとの暮らしに溶け込んでいる、この場所では
ジャズ・スタンダードは、
「エキゾチックな音楽」の枠を超えて、
ひとのこころのひだを、素直に、情感豊かに綴った
美しい音楽でした。
なんて、きれいなんだろう。
私が、ここ15年くらいあまり歌っていなかった
スタンダード・ ナンバーを、
世界中の素晴らしい音楽の、かけがえのない一部として
今までと違う目で見直すようになったのは
それからのことです。
よく練られた、味わい深い、響きの美しい歌詞と
立体感あふれるコードに彩られた、精妙なメロディ。
それをジャズシンガーでも、他の何シンガーでもない
『私』として、ただ、歌ってみたい。
そう思ったのです。
スタンダード・ナンバーを歌ってみようと思ったとき
最初に思いついたのは、
ピアニストのウォン・ウィンツァンさんのことでした。
ウォンさんはずっと昔から
「重子さんとジャズをやってみたい。
きみの歌うジャズは、とても好きだ。」
と、言ってくださっていました。
当時の私は、
ジャズを歌わないのにジャズシンガーといわれて
困っていたのだけれど、
それでもなぜか、その言葉だけは
とてもうれしく、聞くことができました。
ウォンさんは、私の肩書きとは違う、本質の何かを
見てくださっているように、感じられたからです。
そうだ、ウォンさんとジャズを歌ってみよう。
『瞑想のピアニスト』のウォンさんと
『いのちの響きをつむぐ歌い手』である私が奏でる
スタンダードナンバー!
いったい、何が顕われるんだろう!?
ものごとにはきっと、適切な時期というものが
あるのだと思います。
なぜか私は、とても自然にそう考え、
考えた自分に、納得しました。
私のなかで、ジャズの曲たちは、
これまでの姿を手放して
新しい、息づかいを始めているように
感じます。
とてもなつかしいけれど、でも新しい
いのちのあふれる
何か。
スイートベイジルのライブでは
ウォンさんと、ウォンさんの何十年来の仲間、
ドラムの市原さん、そして
ベースのコモブチさんと一緒に
ウォンさんや私のオリジナルや、日本のうたに加え
ジャズ・スタンダードを演奏する予定です。
(クリスマスのうたも!)
どうぞ、おいでください。
http://www.office-giraffe.com/schedule.html
12/18(水) 六本木 STB139 スイートベイジル
鈴木重子&ウォン・ウィンツァン ジャズトリオ
開場:1800 開演:1930 料金\6,000-(ミュージックチャージ)
(問)STB139 tel: 03-5474-0139(11:00~)
http://stb139.co.jp/site/calender/cal/3939.html
ヒーリング・ヴォイス、鈴木重子。今年のクリスマスは、魂のピアニスト、ウォン・ウィンツァンのトリオとともに、美しいうたの数々をひもときます。オリジナルや日本の曲に加え、久しく歌っていなかったジャズ・スタンダードの、時代を超えた、息を飲むような響き。音の後ろの静寂に、耳を傾ける時間を、ご一緒しませんか?
鈴木重子(v) http://shigeko.jp/
ウォン・ウィンツァン(p) http://www.satowa-music.com/
市原康(d) http://i-produce.net/
コモブチ キイチロウ(b) http://comobass.com/
11月 14, 2013 | Permalink
数ヶ月ぶりにお会いした笹子さんのギターは
ますますあたたかさと、スケールを増して
歌っていると、自分の声が、ギターの音と響き合って
まるで、海を渡る風のように
広い世界を創り出して行くのが見えます。
大島花子さんの声は、素直でのびやかで
それだけでも、美しいのだけれど、
しばらく耳を傾けていると、その後ろから、
もっと想像を超えて、大きなものが
聴こえてくるのです。
その立ち現れ方の不思議を、何と形容していいのか
私には、よくわかりません。
普段、そんなものが存在しうると、
考えることさえないために
チューニングしようとすることのない
深い包容力や、優しさや、しなやかな強さ。
花子さんご本人はきっと、ただ普通に、
ありのままでいるだけなのに、
そばにいて、一緒に歌う私には、しばらくするとなぜか
自分が普段、いかにがんばったり、
無理をしたりしているか、
本当に大切なことが、なんだったのかが、
はっとするほど、クリアに感じられてくる。
あたたかなお風呂に入って、しばらくして、初めて
自分のからだが、凍えていたことに、気がつくように。
こうして、音楽を共に奏でる時間をご一緒できるのを
本当に幸せに思います。
曲のラインナップも、すてき!
こころのほぐれるうたを、たくさん歌う予定です。
どうぞ、おいでくださいね。
(転載歓迎いたします!どうぞみなさんにお知らせくださいね。)
8/2(金) 六本木 STB139 スイートベイジル
鈴木重子 ハーブの日 ~つながる、いのち~
開場:18:00 開演:19:30
料金 ¥5,500-(ミュージックチャージ)
全席自由(整理券はございません)
(問)STB139 tel: 03-5474-0139(11:00~)
http://stb139.co.jp/
---------------------------
そのひとの歌声を聴くと、自分がどれほどかけがえのない、
大切な存在なのかがわかる。
ヒーリング・ヴォイス、鈴木重子の『ハーブの日』。
今年は、お父さま(故 坂本九 氏)からいただいたいのちを、息子さんにつないでおられる、
歌手の大島花子さんをお招きして、私たちを育む、大きな『いのちの環』に想いを馳せます。
懐かしい日本の名曲や、美しいブラジルの曲、オリジナル。
あたたかな音楽とおしゃべりを聴きにおいでください。
---------------------------
出演:
鈴木重子(vo) http://www.office-giraffe.com/
笹子重治(g) http://sasa-g.com/
大島花子(vo) http://www.hanakooshima.com/
7月 27, 2013 | Permalink
ライブがあっても、なくても
元気があっても、なくても
降っても、晴れても
できるかぎり、毎日続けている、
うたの練習。
コンスタントに自分と向き合って、
探求し、成長する時間を、自分にあげるのは
とても素敵なことだけれど、
ずっと何年も続けていると、
だんだんしんどくなってきます。
「何がなんでもやらなくちゃ!」
と思って、自分に練習を強いてしまうと
つらい気持ちが積み重ねるだけでなく、
声が固くなって、表現に自由がなくなってくる。
私の楽器は、からだ。
こころとからだは、不可分につながっているのだから
こころが、喜びや自由を失うとき
うたが輝きを失うのは、
とても自然なことだ、と
がんばって歌い続けながら、
どこかで私は思っていました。
これでは、自分も楽しくないし、
ひとの役にも立てない。
先月シアトルに行ったとき、
私は、うたの先生に会いました。
ルーシャ・ニアリーさんは、
アレクサンダーの恩師、キャシー・マデンさんの生徒で
ご自身も、すばらしい歌い手であり、
ヴォイストレーナーでもある、私の友人。
体全体の使い方を、アレクサンダーに沿って理解しながら
ヴォイスを教えてもらえる機会は
私にとって、本当に貴重なものです。
「ハーイ、シゲコ、久しぶり!」
ルーシャの声の響きは、豊かで、厚みと輝きがあって
まるで、手に取れそうなほどの密度。
そのあたたかさにほっとして、私は、
毎日の練習が負担に思えることを、相談してみました。
「練習を続けていると、とてもしんどいし
何だか堅苦しくなってくるの。」
そう言う私を、大きな目でじっと見ながら、
ルーシャは言いました。
「よくわかる。
パフォーマーにとって、ステージでの演奏のためだけに
自分を鍛えようとすることは、とても大変なことなの。
誰よりも自分自身のために、自分の声に栄養を与える方法を
一緒に考えましょう。」
ルーシャの言葉を聞いた、もうそれだけで
私は、身体中の力が抜けました。
そして、いつもいつも、ステージのために
自分を準備することが、いかに大きな努力だったのか
ということに、初めて気づきました。
そうか、大変なのは、私だけじゃなかったんだ。
「それじゃあ、床に寝転んだところから、始めてみましょう。」
それからの1時間のレッスンは、私の普段の発声練習とは
似ても似つかないものでした。
ルーシャと一緒に、床の上を転げ回って
舌や唇を動かしたり、サイレンのように、音を上げたり下げたり
からだをねじったり、床に音を響かせてみたり。
「とくに決まりはないから、自分の声がどんなふうに響くか
興味を持って、本能に任せて。」
ぶるぶると唇を震わせながら、私は
これは、生まれてすぐの赤ちゃんがやることと
そっくりだ、と気がつきました。
いろいろな声を出して、一体どんな音になるのか
まるで、自分という『楽器』を試してみるかのように。
時間が経つうちに、私のからだは、
自分自身の声の響きで、柔らかく、自由になり
声の振動で頭がぼうっとして(笑)、
生まれたてのような、
穏やかで新しい気持ちになりました。
「じゃあ今度は、立って歌ってみる?」
いつものスケール練習を始めた途端、私はあ然としました。
あれほど苦労していた、音域や母音の響きが
全く自由に、安定して、コントロールできる!
想いがそのまま、からだの響きとなって、
耳に聴こえて来るのです。
日本に帰って一ヶ月。
私の練習は、以前にくらべてずっと
自由に、楽しく、
奇っ怪に(笑)なりました。
大きく変わったのは、声だけではありません。
その後ろにある、
『音を出す』ということ
『音楽を奏でる』ということの
定義自体が、広がって大きくなったのです。
以前私は、「この音程の、この音を『出す』
には、どうすればいいか?」
と思いながら、練習していました。
例えば空の絵を描くとき、すでに使う色は
『空色』一色と最初から決まっていて、
その決まった色を出すためには、何を混ぜればいいのかと
悩んでいるように。
けれど実は、からだという『楽器』の響きは
無限にあって、
この瞬間、どんな音の風景を描くために
どんな響きを選びたいのか、
どんな豊かさがありうるのか、ということを
常に好奇心を持って、探検してゆく旅こそが
『歌う』ということなのだと
思えるようになりました。
パレットに、あらゆる顔料をそろえ、
空色だけに囚われず、
常にそのときの美しさにふさわしい色を
混ぜながら、キャンバスに載せながら、
見つけていくような。
歌うということは、なんて奥深く
なんてわくわくする、
そして、なんてなつかしく、心地よいことだろう。
次のライブでは、どんなうたが自分から出てくるか
本当に楽しみです。
STB139 ハーブの日。
もう10年くらいも毎年続けてきた、
このライブでは、
『いのち』をテーマに、さまざまなゲストをお迎えして
うたとお話を綴ってきました。
今年のゲストは、歌手の大島花子さん。
花子さんに始めてお会いしたとき、その佇まいに、
なんて美しいひとだろう、
と思いました。
お話を始めて10分くらいして
このひとは、なんて底抜けに、あたたかくて
優しいんだろう、と
こころを打たれました。
つっかえたり、迷ったりしながら話している
私の、ひとこと、ひとことを
本当に自分の全部で受け取ってくれていることが
なぜか、その空気感から感じられてくるのです。
その安心感を何と言葉で説明したらよいのか
私にはわかりません。
彼女の音楽には、その、包み込むようなあたたかさが
そのまま、にじみ出ているなと
いつも思います。
気取ったところも、わざわざ難しくするところもない
素直で、でもこころにふわりと残る、
うたごえ。
きっと、花子さんの努力のたまものだけれど
ただむやみに努力しただけでは、決して得られない
そんな、貴重な質の。
亡くなった坂本 九さんからいただいた、いのちを
幼い息子さんにつないでいらっしゃる、花子さん。
ハーブの日には、なつかしい、九さんのうたや、
花子さんのオリジナル、
そして本邦初公開の、驚きのナンバー
(内緒です〜♫)まで、
一緒にゆっくり、お話ししながら、
歌い継いでゆきたいと思います。
暑い夏の一夜、からだとこころを休めに、
どうぞ、おいでくださいね。
(転載歓迎。みなさんにお知らせくださったら、とてもうれしいです。)
http://www.office-giraffe.com/schedule.html
8/2(金) 六本木 STB139 スイートベイジル 鈴木重子 ハーブの日 ~つながる、いのち~
8/2(金) 六本木 STB139 スイートベイジル
鈴木重子 ハーブの日 ~つながる、いのち~
開場:18:00 開演:19:30
料金 ¥5,500-(ミュージックチャージ)
全席自由(整理券はございません)
(問)STB139 tel: 03-5474-0139(11:00~)
http://stb139.co.jp/
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そのひとの歌声を聴くと、自分がどれほどかけがえのない、
大切な存在なのかがわかる。
ヒーリング・ヴォイス、鈴木重子の『ハーブの日』。
今年は、お父さま(故 坂本九 氏)からいただいたいのちを、息子さんにつないでおられる、
歌手の大島花子さんをお招きして、私たちを育む、大きな『いのちの環』に想いを馳せます。
懐かしい日本の名曲や、美しいブラジルの曲、オリジナル。
あたたかな音楽とおしゃべりを聴きにおいでください。
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出演:
鈴木重子(vo) http://www.office-giraffe.com/
笹子重治(g) http://sasa-g.com/
大島花子(vo) http://www.hanakooshima.com/
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7月 10, 2013 | Permalink
私の人生を豊かにしてくれているものの一つ、
アレクサンダー・テクニーク。
私がアレクサンダーを初めて知ったのは、
いまから14年ほど前でした。
歌手としての仕事も忙しくなり、
歌うことにも、ひととの関係を築くことにも
一生懸命がんばっていたころ。
ある日、ライブハウスに歌いに行くために
私は身支度をしていました。
ジャケットを羽織って、バッグを持って、
はくしょん、とくしゃみをした途端、
腰のどこかがぐうっと動いて、
雷のような痛みが走りました。
ああ!
驚いて、立ち上がろうとしたけれど
全く、動くことができません。
痛みが激しくて、吐き気がするほどです。
どうしよう!?
いちばん最初に頭に浮かんだのは、
『アーティストは何よりも、
約束したステージに上がることを大切にする』
という考えでした。
とにかく、何としてでも行かねば。
私はピアニストの友人に電話して、迎えに来てもらい
文字通り、這ってライブハウスに行き
手を取ってもらってステージに上がり
椅子に座って歌い
(歌っているときだけは、なぜか痛みが消えたのです)
また這って、家に帰りました。
帰り道、車の中で横になっている私に、
友人がぽつりと言いました。
「重子さんのぎっくり腰は、重子さんがからだにかけている
負担が原因で起こっているんじゃないかな。。。」
自分で負担をかける?それってどういうこと?
痛みであまり働かない頭で、私は考えました。
とにかく、とりあえず、何でもいい。
この腰痛が治って、立って歌えるようになるなら。
そしてその友人に紹介してもらったのが、
私の、いちばん最初のアレクサンダーの先生でした。
スイス人のイムレさんは、驚くほど美しい容姿のひと
だったっけれど、
容姿以上に、その優雅でしなやかな身のこなしや
落ち着いて穏やかな佇まいが
とても印象的だったのを覚えています。
「シゲコは、立っているために、
どれほどがんばる必要があると思う?」
「周りの空間を見回してみよう。右、左。
戻って来て、何か変わったかな?」
静かに話しかける声と、思いやりのある、デリケートな手に
耳を傾けているうちに、だんだん、
固まっていた筋肉がほどけて、生き生きと動き出します。
呼吸が深くなって、赤ちゃんのような
安らかな気持ちになりました。
そして、何より驚いたことは、
あれほどひどかった、腰の痛みがなくなってしまったこと。
私はそれ以後、一度も腰痛を起こしたことがありません。
(もちろん、痛みがどのように改善するかは、人によって、
状況によって、違うけれど。)
治った、というより、
悪くなりつつあるのに、とても早い段階で気づき
変化を起こせるようになったのです。
(こういうのを『未病』というのですよね。)
すごい。
痛みがなくなったことが、すごいのではありません。
レッスンで私が学んだのは、
自分が今まで、体じゅうにどれほど無駄な力を入れていて
それによって、どれほど負担をかけていたのか、
ということでした。
私がぎっくり腰になったのは、
他の多くの場所が固まってしまい、そのせいで
腰椎に多大な力がかかったからだったのです。
なんて面白いんだろう!
もっともっと楽に動けるようになったら、
どんなに楽しいだろう?
がぜん興味が湧いた私は、レッスンを続けることにしました。
続けていくうちに驚いたのは、
体だけでなく、こころがとても楽になって、
安定したこと。
それまでの私は、いつも緊張して、あちこちに気を使ってしまい
とても疲れていました。
一番最初のレッスンのときには、
「片足を上げて、力を脱いてすとんと落としてみて。」
と言われても、どうやればそれができるのか
わからなかったほどです。
レッスンが進むにつれて、私はだんだん、
無理をせず、ありのままの素直な自分でいることが
やりやすくなっていきました。
いくら「大丈夫!」と自分に言い聞かせても、
どうしてもなくならなかった緊張が、
文字通り体のレベルから解消していったのです。
そして、数ヶ月したら、
声が変わったことに、気づきました。
からだは、声のための楽器です。
体が緊張して固まっていたら、声は響きを失います。
私のからだとこころが自由さを取り戻すとともに
声が豊かになったのは、
思い返せば、当たり前のことでした。
これまで、どんなにがんばっても表現できなかった
感情のひだが、響きになって自分から流れ出してゆく。
それはとても不思議な、幸せな体験でした。
それは、聴いてくださる方にも、伝わるようでした。
客席で涙を流すひとを見つけるようになったのも、
このころからのことです。
アメリカ、イギリス、スイス。
世界中のいろいろなところに、勉強に行きました。
学ぶ、ということが、こんなに面白く、楽しいものだとは
それまで想像したことがありませんでした。
試行錯誤したり、悩んだり、笑ったり、泣いたりしながら
自分の全存在の限界を、常に新しい世界に開いてゆく
その醍醐味。
最初のレッスンから、もう14年ほど。
今も私はいつも、新たな発見を続けながら
その醍醐味を、今度は教師として、分かち合っています。
アレクサンダーを教えるのは、本当に楽しい、
こころが満たされるできごとです。
生徒になってくださる方の、存在のすべてに触れ
そのひとの望みを、一緒に探求する機会。
今年は、大好きな北海道で、ワークショップを開くことが
できるようになりました。
札幌の南、広大な森に囲まれた場所で、
ゆったり時間をとって、
自分自身のこころやからだと対話する時間。
音楽家の方が、より自分を解放して、
楽に自由に演奏できるようになるための、1日ワークショップと
体のレベルからこころを解放して、
楽で快適で、安心な自分を見つけ、
周りの世界の人たちと、素直で落ち着いた関係を
持てるようになるための、3日間のワークショップ。
それぞれの方が、新しい世界に向かって
花が開くように、自分を解放してゆくお手伝いをするのを
楽しみにしています。
札幌の7月は、素晴らしい季節。
どうぞ、おいでください。
http://kaneai.jimdo.com/かねあいトップ/2013芸森ws/
【こころとからだを解放し、のびのびと舞台で演奏しよう!
音楽家のためのアレクサンダーテクニーク・ワークショップ】
がんばって練習すればするほど、音が出にくくなって、不自由になってしまう。音程やリズムに気をつけると、表現がおろそかになり、表現に気を使うと、演奏が雑になる。他のメンバーと息が合わない。ステージに上がると、緊張して体が思うように動かない…こんなことはありませんか?
私たちは、力を入れて何かを『する』ことは、たくさん学びますが、無駄な力の『抜き方』を学ぶ機会は、まずありません。豊かで自由な表現は、本当は不要な力みのない、効率的な演奏から生まれてくるのです。アレクサンダー・テクニークは、100年ほど前に開発された、『ラクな体の使い方』についての技術。欧米では、音楽や演劇の学校で、基礎トレーニングとして取り入れられています。知らない間にしょいこんだ、不要な思い込みやプレッシャー、それにともなう体の負担を減らして、ラクで効率的な動き方を学びます。骨格模型を見ながら、体の構造を再発見し、エクササイズをしながら、聴いて、見て、触れて、動いて、パフォーマンスの質を上げていきましょう。
(鈴木 重子)
■ 日 程 ■ 2013年7月12日(金)13:00〜17:00
■参加費■ 14,000円(定員25名)
《学ぶことの一例》
●ボディマッピング・・・体の仕組みを理解し、効率よい楽な使い方を学ぶ
●呼吸のワーク・・・自然な呼吸を学ぶ
●あがり症の克服・・・舞台に出るとき、なにが起こっているのか。緊張を表現へのエネルギーに変換する学び。
ご希望の方はワークショップ内で実際の演奏も歓迎します。楽器をお持ち下さい。
7月12日音楽家のためのWS参加者限定
【懇親会&発表会】
7月12日(金)18:00~20:00
+2,000円で【懇親会】に参加できます。
持ち寄り形式です。
ワークショップで学んだことを活かしての発表会です。
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【安らかで、生き生きした『からだ』を生み出すワークショップ
〜声、呼吸、動きを通して、周りの世界とつながる〜】
しなやかで、落ち着いて、快適な、からだ。自分が自分であることに、お腹の底から満足できるようなそんな体験をしたことがありますか?私たちのこころとからだは、密接につながっています。むだな力みや緊張を手放すとき、からだは解放されて柔軟さを増し、こころは安定して、存在することの喜びや、周りとのつながりを生み出すのです。アレクサンダー・テクニークは、100年ほど前に開発された楽で自然な『からだの使い方』のための技術。このワークショップでは、その原理を使ってからだのひとつ、ひとつの構造を確かめながら、声や呼吸、動きを解放することによってからだのレベルから、安心で生き生きした自分に、生まれ変わっていきます。豊かな自然の中で、ゆったり時間をとって、こころと、からだと、世界とのつながりを再発見してみませんか?
(鈴木 重子)
■ 日 程 ■ 7月13日(土)〜15日(月・祝)
◇7/13(土)
14:00~15:00 受付
15:00~17:00 オリエンテーション・レッスン1
17:30~19:00 夕食
19:00~21:00 レッスン2
◇7/14(日)
9:00-10:30 森林散歩、自然のワーク
10:30-12:30 ブランチ、自由時間
12:30-16:30 レッスン3
16:30-17:30 入浴、自由時間
17:30-19:00 夕食、自由時間
19:00-21:00 レッスン4
◇ 7/15(月・祝)
9:00-10:30 レッスン5
10:30-12:30 ブランチ、自由時間
12:30-15:00 レッスン6、クロージング
※スケジュールは、若干変更する可能性がございます。
※より深い学びをするために一日2食としています。休憩時間などで、持参のものを食べていただくのは構いません。
■参加費■ 46,000円 (定員18名)
※会場利用費、食費、宿泊費、資料代の全てを含みます
2泊、4食付(相部屋となります。食事は野菜中心。13日夕食、14日の朝食、夕食、15日の朝食です。)
ひのき風呂に入れます。
※ 宿泊を希望されない方は一泊につき5,000円引きが可能です。
【ワークの内容(予定)】
・声、呼吸のエクササイズ 楽で自然な声と息
・ボディ・マッピング 体の構造を知ることで、体に落ち着く
・からだを使った、関係性のワーク、安心のワーク
・自然とのつながりのワーク
・日常の動き(歩く、座る、食べるなど)のワーク
※それぞれの方の興味、関心を、深く取り扱っていきます。
7月13日〜15日のWS参加者限定
【やさしいコミュニケーション(NVC)WS】
7月15日(月・祝)16:00~19:00
+3,000円
ノンバイオレント・コミュニケーション(NVC)とは?
40年ほど前に、アメリカ人の心理学博士マーシャル・ローゼンバーグが提唱した、互いを聴き合う対話法。自分や他人を批判することなく、ありのまま受け入れながら、思いやりをもって聴き合いながら、つながりを見つけてゆくための具体的でシンプルな方法です。
特別割引!
全日程にご参加の方は参加費2,000円を割引いたします。その場合、7/12(金)の夜も芸森スタジオでの宿泊も可能です(1泊6,300円)。7/13(土)の朝食の用意はありませんのでご了承ください。
〔2013芸森WS予約専用メールアドレス〕 at2013sapporo@gmail.com
〔Fax番号〕 0133-62-8337
【お問い合わせ】 kaneaikaneai@gmail.com (かねあい)まで
6月 10, 2013 | Permalink
一昨日から、
ノンバイオレント・コミュニケーションの合宿に参加するために
カリフォルニアに来ています。
昨夜は、バークレーの劇場に
友人のインバルが書いた、朗読劇を見に行きました。
インバルは、NVCのトレイナー。
アメリカで最も大きい、NVCの組織のひとつである、
Bay NVCの創始者の1人です。
2009年に初めて、西海岸のリーダーシップ・プログラムに
参加したとき、
40歳になったばかりの彼女は、メインのトレーナーでした。
その、包み込むような優しさと、透き通るほどの正直さを
今も驚きとともに、はっきりと覚えています。
彼女がガンを発見して、
自分のケアと、家族との時間を大切にする生活を始めたことを
知ったのは、その翌年でした。
ときどきメールで知らせてくれる近況を読み、
アメリカに来たときには、できれば直に会って
様子を気遣いながら過ごした、この数年。
彼女が病院で大変な化学療法を受ける日に、
電話をかけて、歌を歌って聴かせたこともあります。
それでも、彼女への気遣いを望むほどできない自分を
もどかしく思っていた、日々でした。
今回の戯曲は、今も、死の恐怖に直面しながら、
闘病の毎日を生きている、
彼女自身の経験をもとに書かれた物語。
主人公のアンは自分がガンにかかっていることを知って、
理由も告げずに、友人や恋人のもとを去ります。
「恋人に自分がガンだと伝えるなんて、
そんなことには耐えられない。
私のからだの中にはもう、私の心はいない。
放っておいて!」
と言って、誰にも会おうとしない、アンと
その彼女に、必死に気持ちを伝えようとしたり、
元気づけようとしたりする、周りの人たちとのやりとりが
ときにユーモアを交えながら、静かに続いて行きます。
恐怖や寂しさと格闘しながら、自らの選択を大切にしつつ
生きて行こうとする、本人と
愛する人を失う恐れや悲しみに動揺し、
自分が思う『最善』の策を、彼女に取ってもらおうとする
周りの人々。
『いのち』の瀬戸際で、それぞれの人の『選択』がぶつかり、
揉まれ、変容してゆく。
客席で、ときどき聴き取れない英語のジョークに
必死に耳を傾けつつ、私は
この物語を書いたインバルが、今、本当に
この事態に直面していることを想いました。
(手術を終えた今は、生き続ける希望がずいぶん増えたけれど)
その怖れや苦しみがどれほどのものか、この劇を見てさえ、
実感しきれない自分を、悲しく感じる、その一方で
いのちというものは、それほど、大きいものなのだ
とも、思いました。
いのちが無くなる、ということの実際を、そんなに簡単に
想像できるはずがない。
そして、見続けているうちに、私はなぜか、
どこか奥深くで、自分の一部が
生きるのを怖がっている、ということに
気づきました。
本当に、自分のすべてを全開にして、
運命にすべてをまかせて、
やってくるすべてのものごとを受け入れながら
たった今、この瞬間を100パーセント、
生き切ることへの、恐れ。
一体、何が怖くて、何をためらっているのだろう?
理屈も理由も、よくわからないけれど、
涙が流れて、止まらなくなりました。
私は、生きたい。
でも、生きているのが、怖い。
『生きたい!』という衝動も、
『怖い!』という気持ちも、
どちらも、想像を超えて深い、
でもとても当たり前で、懐かしい場所から
来ている。
生きることと、死ぬことは、同じこと。
いのちの限りを尽くして、人生を終えるということを
想うとき、それは必然的に、
今というときを、充分に生きる、ということを
意味するのだと気が付いたのは、
ずっと後になってからでした。
インバルのおかげで、
自分自身の大きな葛藤に触れることができたことに、
本当に感謝しています。
そして私はその両方を、大切にしながら、
生きていきたいなと思います。
たった今、怖れのすべてを無くしてしまおう、
などと頑張ったりは、しないで。
生きることへの渇望と怖れ、そのどちらもが私に、
いのちの、本当のありかを指し示してくれるから。
「観にきてくれて、ありがとう!」
杖をついてステージに上がり、観客の前に立ったインバルは
今までのいつよりも強く、美しく、輝いて見えました。
終演後に会いに行き、涙を流す私を、
彼女はしっかり、抱きしめてくれました。
畏敬の念に打たれて、私はその笑顔をずっと
見つめました。
今度は、本当のお芝居になる、この物語。
ぜひまた見にきて、元気なインバルに会いたい。
6月 1, 2013 | Permalink
今日は公園で、うたの練習。
寒い間は、毎日のようにスタジオに行っていたのですが
閉じられた、音の響かない空間で、ずっと歌い続けるより
やっぱり、木や草や、空のあるところが
好きです。
広い原っぱのはしっこの、大きな木の下で
呼吸の練習を始めた途端、
自分がなんだか、一生懸命力んでがんばろうとしているのに
気づきました。
なぜ私はこんなにもかたくなに、力を入れて
無理に体を動かそうとしているんだろう?
この星の大地は私を下から支え、
空気はすみずみに満ちて、私の声の響きを伝え、
木や花は、無条件で酸素を与え、
私の息を受け取ってくれるというのに。
なぜ必死になって、自分のなかの気に入らないものを
外に押し出そうとしているんだろう?
私のすべては、この星の大切な一部なのに。
ざらざらした、木の幹のしわに触れたり、
地面を歩くアリを眺めたりしながら、歌っているうちに
だんだん、不思議な気持ちになりました。
私が、無理にがんばって歌うのではない。
この世界は、音に満ち満ちていて
私はただ、それに響きを与えると決めるだけなのだ。
私が、世界という楽器を鳴らしているような
世界が、私という楽器を奏でているような。
私のうたに合わせて、
向こうで遊んでいた子どもたちも歌い出し、
原っぱは、伸びやかな歌声に包まれました。
寝ぐらに帰る鳥の声と、木々を揺らす風の音と
全部が一緒になって、奏でるその音を
自分も歌いながら、からだで聴きました。
ひとが歌うということの、本当の意味を、
ふたたび思い出せたことに、感謝です。
4月 28, 2013 | Permalink
朝、打ち合わせに行くために、
少し急いで駅の階段を上がろうとしたら、
上から年配の女の人が、すこし足元をぐらつかせながら
私の真ん前に降りてきたので
素早く脇によけながら、すれ違い際、顔を上げて
無意識に、にっこり笑顔を向けました。
しばらく歩いてから、私は
その『にっこり』を、少し無理して作っていた
ということに気づきました。
口の隅っこを一生懸命上げて、笑ったかたちに。
そういえば、自分が映った写真を見ると、
ときどきそういう顔をしていることがある。
考えてみたら、よくやっているかも。
ちょっとがんばった、笑顔。
その『がんばり感』を味わっているうちに
無理して気持ちを表現しようとしていることが
自分にとって、実はけっこう大変で、
いつも、少し後ろめたかったのだ、ということに
思い至りました。
愛想笑い。ああ、こんなのって、いやだな。
どうしてもっと自然にしていられないんだろう?
悲しい気持ちになったそのとき、ふと浮かんだのは、
小さな疑問でした。
「そもそも私はどうして、
あのおばあちゃんに笑いかけたかったんだろう?」
答えは、驚きとともに、すぐにやってきました。
「私は、彼女をを安心させたかったのだ。」
彼女は、体が自由にならないため、歩くだけでも精一杯で
自分の周りに注意を払う余裕がなくて、
気がついたら自分が誰かとぶつかりそうになっていることに
もしかしたらびっくりして、心もとない気持ちに
なっているかもしれない。
一瞬でそう考えた私は、「大丈夫、おばあちゃん。」
と言ってあげたかったのです。
誰かと触れ合うとき、それがほんの短い、小さな出会いでも、
特に相手が私の反応を測りかねて、
不安になるかもしれないと、私が思うときは
「私はあなたの敵ではなく、友達になりたいのです。」
ということを伝えたくて、一生懸命にっこりしていたのだな、
ということに気付きました。
つながり、安心。
自分の大切にしていたものが見つかった途端
体じゅうの力みが抜けて、息がらくになって、
なんだか泣きたいような気持ちになって
そして私は思いました。
なんだ、けなげじゃないか、私!(笑)
これからは、そんなに必死にならなくても
つながりを願っている私の全部で
そのひとと一緒にいれば、それでいい。
それは本当に、あたたかくて安心で、満ち足りた気持ちでした。
ひととの調和を大切にするこの国では
とてもたくさんのひとが、
にっこりする機会が多いように思います。
そしてときに、周りを慮る気持ちが大きいあまり、
無理をして笑顔をつくってしまう機会も。
そんなとき、愛想笑いを無理に続けたり、
そんな自分を責めたりするかわりに
どうして、笑いかけたかったのかということを
やさしく自分に尋ねて、本当の望みに、耳を傾けてあげると
実は、がんばらなくても、ありのままの自分に、
ひとの幸せに貢献したい気持ちや、
そのための力があるのだということが、
腑に落ちてわかってくる。
ほんの一瞬の、ほんの小さな顔の動きから
なんだか大事なことを、見つけてしまいました。
ずっと目に入っていたまつ毛が出てきたような、
のどにひっかかった魚のホネが取れたような(笑)
晴ればれした気持ちです。
4月 21, 2013 | Permalink
昨日は、育てて、食べながら学ぶコミュニケーションのワークショップ。
この企画を思いついたのは、
前回、農家のお友達の実家を会場に、
ワークショップを開かせてもらった時でした。
東京を離れて、広々とした畑や竹林や、古民家のある
ゆったりした場所で3日間を過ごして、
私は、その時間の流れ方の穏やかさと、空気の静かさ
そして何より、東京では思いもつかなかった
『豊かさ』の質に、目を見張りました。
小さい頃から、住宅街で育った私にとって、
野菜は、きれいに洗われ、カットされて、パックに入って
300円とか、400円とか、値段の付くものだったのだけれど
ここでは、大根も、キャベツも、白菜も
土から自分で『育って』いるのです。
そして、ふんだんにたくさんあるから、
「ほらこれも食べて、あれも持って行って!」と
宝物のような食べ物が、惜しげもなく贈り物になる。
今は誰も耕す人のいない畑もたくさんあって
使われるのを待っている。
お友達のお母さんが漬けた、おいしい白菜のお漬物を食べながら
この味は、どんなにお金を出しても、買えない
と思いました。
いのちを育てている人が、大切な家族のために作った
まじりけのない、愛情の味。
情報やモノやお金が集まる都会の
刺激やスピードや、ファッションや豪華さといった
『豊かさ』とは、全く違う次元の『豊かさ』が、
そこにはありました。
食べ物の育つところに、それを見守りながら暮らす、安心感。
その、からだをまるごと地面に預けるような安らかさを、
どうやって言葉で表現していいか、わかりません。
私は人生で、これまでそんなことを感じたことも
考えたこともありませんでした。
『いのち』が循環するところ。
人間だけでは成り立たない、その循環の中で、
ひととひとのつながりを、捉え直したい。
そう願って、このワークショップを始めたのです。
広い畑の一角の草をカマで刈り、
いろいろな葉野菜の種をぱらぱらとまいて
上から、刈った草をかけて。
種まきは、思ったよりものすごく、シンプルな作業でした。
私は、野菜は『育てる』ものだと思っていたのですが
実は、『育つ』部分は、それぞれのいのちが、
勝手にやってくれることだということに気づいて
愕然としました。
人間がすることは、種をまき、
成長の邪魔になるものがあったら、取り除き
収穫すること。
(それが、簡単でラクなだけのこととは、
もちろん思わないけれど、それでも)
私たちは本当に、限りなく大きなギフトを、
自然から、無償でいただいているのだなと、しみじみ。
NVC(非暴力コミュニケーション)の、
いちばん大切にしているものに、『ニーズ』があります。
私たちが幸せに生きていくために、必要な『質』
例えば、愛や、平和、友情、表現や楽しみ、自由。。。
誰もが自分の存在の底で、必要としている、
これらの『ニーズ』のレベルには、争いというものはないのだと
NVCでは言うのですが、
自分の中の、そうした深い望みにつながるとき、
私たちは、自分のなかを脈々と流れる河のような
『いのち』につながっていくのだと、私は感じます。
そしてその『いのち』は、私個人を超えて、
両親や子ども、そして、人類、生き物のすべてのいのちと
つながっている。
小さな川の流れが、大きな海になるように。
食べ物のいのちに触れるとき、私は、
そうしてつながっている、大きな『いのちの海』の
存在を感じるのです。
まいた種と同じ種類の野菜を、お友達が
近所の農家からもらってきてくれたので
自分たちの作る野菜の姿を想像しながら、
そば粉のガレットに巻いて、いただきました。
自家製の豆腐マヨネーズも、酵素ジュースも、
何もかも、おいしかったなあ♫
実際に、自分の食べるものを作れるようになるためには
とてもたくさんの、勉強や作業や試行錯誤が
必要だけれど、
第一歩を踏み出せたことが、お祝いです。
お友達と、参加してくださったみなさんと
そして、お日さまと、空気と、雨と、地面に、
感謝。
4月 13, 2013 | Permalink
今日はリハーサルのあと、上映が終わってしまう前に、
ぜひ観ておきたいと思っていた映画に行きました。
『魔女と呼ばれた少女』はアフリカのコンゴ共和国で
反政府ゲリラに拉致され、少年兵として戦い、脱走し、
また連れ戻され、また脱走しながら
人間として、女性としての自由や幸せを探し求めた、
コモナという少女の物語です。
私は一昨年、紛争のあったウガンダに行き、
少年兵だった音楽家の人たちに会うことができました。
アフリカのゲリラ戦では、子どもが誘拐され、訓練され、
兵士として戦いに駆り出されます。
子どもは洗脳しやすく、また、警戒もされにくいので
兵士にするのに都合がよいと考えられたからです。
ウガンダ北部の紛争では、その数3万人。
女の子たちは、戦闘要員の他に、
兵士たちの妾としても使われました。
子どもたちにとって、少年兵であるということは
どんなことなのか?
いままさに、それについての本を執筆している私は
その、手触りのようなものを、見つけたかったのです。
水辺の村で平和に暮らしていた、コモナたちを急襲したゲリラは
捕らえたコモナに銃を持たせ、
その場で両親を撃つように命じます。
「もしお前がやらなければ、オレがもっとひどいやり方で殺す」
という言葉を聞いて、泣きながら引き金を引くコモナ。
その日から、帰る場所をなくした12歳の彼女は
少年兵になったのです。
画面の中に広がる風景を眺めながら、私はありありと、
ウガンダに行ったときのことを思い出しました。
赤い、乾いた土。青々と茂るみどり。
容赦なく照りつける、太陽。粗末な木造りの小屋。
ああ、そうだった。こんなふうだった。
乾いた空気の温度や、匂いまでもが蘇ってきます。
そして、ひと。
美しい、黒い肌の人たちの、ひと同士のやりとりは
あまりにも強い光と影に洗われて、
あいまいなものや、繊細なものがない、
不思議な、ドライな突き抜けた感じがするのです。
眩しい光のなかで、次々と、ひとが死んでゆく。
生き残った者は、ゆっくり悲しみに浸る間もなく
生きる、ということに取り組んでいかなくてはならないのです。
コモナはゲリラの1人と恋に落ち、
2人でキャンプから脱走します。
戦いと、逃亡とのなかで、子どもを生み育てる、彼女の
想像を絶する、強さとしなやかさ。
それは、どんなに惨い争いをも超えて、アフリカの大地の力に
つながっているように感じました。
ひとのいのちの力は、戦いよりも強い。
監督のキム・グエンさんの想いが、伝わってきました。
印象的だったのは、映画のそこここに、
まじないや魔法、幽霊が出てくること。
コモナは幽霊を見ることができ、
敵の位置を察知する能力があるおかげで、
ゲリラに重宝がられ、またそれゆえに追われるのです。
ウガンダの紛争の際も、ゲリラの中に
神通力があるというリーダーがいたと、私は取材で知りました。
アフリカのひとびとの暮らしは、今も
そうしたものと共にあり、
それが、戦争の一部でもあるのだと驚きました。
混沌と混乱。非情さと残酷さ。
もし私自身が、家族を殺せと言われたら、
いったい、どうするだろう?
もし誰かを殺してしまったら、その痛みから立ち直ることができるだろうか?
想像することさえ、難しいけれど
今、この世界で、本当に、それに直面しているひとが、
数えきれないほどいるのだということを、
私ははふたたび、想いました。
何かをしよう。
その数が、1人でも少ない世界を目指して。
こころの中で、思いながら、劇場を後にしました。
私が立ち上げたBreath for Peaceは
世界中の紛争地から集めた、平和のうたを
紛争の背景や、作者のメッセージとともに紹介するプロジェクトです。
争いの犠牲になった人たちの悲しみを、一緒に呼吸しようと
この名前をつけました。
どうぞ、聴いてください。
http://nantokashinakya.jp/projects/breath_for_peace/
写真は、ウガンダ北部、グルからアナカに向かう、草原のなかの一本道。
4月 4, 2013 | Permalink